memories

2012年5月31日 (木)

私のハードボイルドワンダーランド

母の実家は、熊本電鉄(菊池電車)の黒石駅の近くなので、
幼いころ、祖父のところに遊びに行って
さて、熊本市内に遊びに行くか、となると
黒石駅から菊池電車に乗ったものだ。
そして堀川駅で降りて、バスに乗り換える。
通町鶴屋前まで行くには、バスの方が便利だからだ。

いくつのときか忘れたけれど、
鶴屋百貨店の食堂で食べたざる蕎麦がおいしくて、
おかわりをしたことを思い出した。

母の子どものときは藤崎宮前駅まで行って、
駅前の山本屋で食事するのが、数少ない贅沢だったという。
母方の祖父は、戦争中家族と共に台湾にいて、
現地の人との記念写真が残っているが、
週末にすき焼きをよく食べたとのこと。
母は毎週と言っていたが、それはないだろう(笑)

思えば、黒石の家には天火があって、
祖母がよくポンド(パウンド)ケーキを焼いてくれたものだ。
天火(オーブン)もそうだが、
祖父お手製の太陽熱湯沸かし器が屋根に載っていて、
あれも天火と呼んでいたような気がするが、
いま思えばすごいエコな暮らしだったな。
水は、下の親戚の井戸に汲みに行った記憶がある。
西瓜を冷やしに行ったのだったかもしれない。
藪椿の実から油を取り、お茶の木が塀代わりだった。
山羊も飼っていて、そのフンを正露丸だと教えられた。
陸軍式のジョークというやつだろうか。

いまは舗装されて、
その先はどこまでも住宅地が広がっているが、
昔は、その坂を上るとそのまた先は地の果てだった。
実際は少年の町(現天使園)があって、
その向こうの自衛隊演習場までは、
八景水谷の駐屯地から、国道伝いに
61式中戦車がキャタピラーで小石とほこりを巻き上げながら、
何台も何台も走っていたのだけれど。

役場から帰ると、NHKの人形劇
「チロリン村とくるみの木」を見るのが楽しみだったという
祖父の頭の中では、どういう未来が見えていたのだろう。

※私が昔、人づてに聞いた話と
自分自身の幼い記憶で構成されていますので、
事実とは幾分違っているかもしれません。また
誇張されている場合がございますが、そこはよしなに・・・


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これは、先日藤崎宮前駅で買い求めた
昔日の熊電乗車券也。
確か、1セット百円だったと思います。


2012年5月30日 (水)

戦没者追悼式

毎年今頃行われる合志市戦没者追悼式。
今年は5月28日月曜日に開催された。

戦没者遺族のみなさんには
まことに申し訳ない気持になるけれども結果的に、
私の近しい親族に戦死した者はいない。
そんな中、一番不運だったのは、
父の兄弟の長兄であろう。
熊本中学から東京音楽学校に進んだのに、
学徒動員で南方に飛ばされてしまった。
不運にもマラリアにかかり、送り返されたので
生還することは出来たのだが、
ドラマでいうなら、脇役の可哀想な人生を送ることになった。
祖母の話を断片的に覚えているが、
マラリアの後遺症の発作のときは全身ががたがた震えるので、
布団をかぶせてその身体を抱きかかえているしかなかったという。

私の父は、祖父が郵便局長をしていたので、
当時、いまの菊池市、旧泗水町に住んでいて、
とにかく近所からは二人しか選ばれなかったという
時代的には幸運にも、予科練に入ることができた。
しかし時局運悪く、広島県呉の造船所で、
駆逐艦の修理作業をやってるか、
自分たちが乗ることになる人間魚雷を作っているときに、
終戦を迎えてしまったので、
私と妹弟にとっては類いまれなる武運で以て、
父は熊本に戻ってくることができた。

正確なことはついぞ聞きそびれてしまったが、
ともかく除隊するときに、
牛を一頭もらって、それを引いて帰途についたという話である。
それが、小倉辺りまで来たときに、
熊本では食べ物はいっぱいあるが、
衣類が不足していると誰かに吹き込まれ、
何枚かの軍用毛布とその牛を交換してしまったらしい。

私の息子が小学生のとき、
宿題で祖父の戦争体験を聞くというのがあった。
私の父は、実戦に参加したわけではないが、
なまじ予科練生という天国を見ただけに、
戦後、相当やさぐれたことは想像に難くない。
だから、戦争について語ることといえば、
あのときは、死ぬことに疑いを挟むことはなかった、
そういう時代だったということだけだった。

だから、そのジャックと豆の木のようなエピソードを
祖母から聞いていた私がそれを息子に話したっけな、
と久しぶりに思い出した。






2012年4月30日 (月)

老人ホーム

この時期、おたまじゃくしは小川や池で育っているだろうか。
私が生まれ育った家には、大きな池(泉水と呼んでいた)があり、
どこからやってくるのか知らないが、
初夏にはカエルの声が聞こえたものだ。
大合唱だったような気もするし、
風流に歌っていたような気もするが、
どちらだったか、もう思い出さなくなった。

祖母やまわりのみんなが往還と言ってた表通りは
旧国道57号線で、
バス停の横の路地を入るとわが家があった。
その路地添いには、狭い水路があり、
そこを流れる水の音が夜にはかなりうるさく感じられた。
だからだろうか、多少の騒音があっても
寝つきはかなりいい方である。
その水路のことを何と呼んでいたのだろう。
やっぱり川だったのだろうか。
勾配があったので流れは速かった。
カワニナがびっしり張り付いていたが、
庭の泉水にやってくるホタルで、
そこで育ったものもいたのだろうか。

私は自宅で産婆さんに取り上げられた。
昭和31年3月12日は忘れ雪が降り、
父が産婆さんを負ぶって、その狭い路地を
行き来したということだった。
その産婆さんは晩年、室町にあった老人ホームに
入っていたということを
昨日、あさぎり町まで5人連れで葬儀に行き、
途中話に出た「老人ホーム」という言葉で
そのことを思い出した。

妻の祖父は、
雨の日に自宅兼事務所の窓から、
入学式に向かう親子連れを見ていて、
足元の悪いなか、大変だろうと同情し、
一念発起、タクシー会社を起こしたのだそうだ。
当時は簡単に認可が下りるような時代ではなかったので、
代議士にまで頼み込んで、ずいぶん苦労したらしい。
朝の連続ドラマみたいなエピソードで
いっぱいだった時代だと思うでしょう。
まあ、あと50年もすれば、
この、いまでこそ日常のありふれた出来事が
ドラマのネタになり得るということです。


2011年8月16日 (火)

スティング

伯父(父の実兄)が亡くなり、
その葬儀で昨日大阪に行った。

伯父は大正15年生まれ、85歳。
父は海軍の予科練で、
呉の造船所で終戦を迎えたと言っていたが、
伯父は同じ予科練でも航空隊だった。
どこで詔勅を聞いたのだろう。

祖母の、自分の家族にまつわる話は
山ほども聞いた。
しかし、それらが真実であったかどうか、
それは川の水が海に流れ込んで一つになってしまえば、
どこまでが本当のことで、どこからが伝説になったのか
どうでもいいことであるように、
当人たちが亡くなってしまったら、
市井の人の昭和の話は、
多少の誇張があったとしても、
家族の歴史として、面白いだけでいい。

とはいうものの、
私の記憶の中でずいぶん曖昧になってしまったことについては
個人的に責任を感じる。
そのときどきに、聞いたままでいいから記録しておくべきだったと。

上田の祖父が亡くなったとき、
私は小学5年生だった。
讀賣新聞の記者だった伯父に連れられて、
当時、多分花岡山の中腹だったと思うが、
出来たばかりの熊本支局を訪れた。
遺影にするために
スナップ写真を引き延ばしてもらうためだったと思う。

私が結婚したのは昭和61年だったけれど、
その頃、伯父はよみうりテレビで、
夕方のローカル番組のキャスターをやっていて、
披露宴を欠席した。
のちに熊本県民テレビのテレビタ特派員になったとき、
その総会で当時の社長にそのことを話したら、
ひとこと「古い話ですな」と言われた。

さすがにテレビは常に新しいものを追い求めている。
自分の先輩にあたる人の話なのに、
面識はなかったにせよ、
もう少し物の言い方はあるだろうに。
いま、会長か何かになっている人物だが、
世渡り上手で熊本まで流されてきたのだろう。

昨日豊中市の斎場で荼毘に付された伯父の
焼かれた骨のきちんと形が残っていたのには、
家族親戚ともども驚嘆の念を禁じ得ない。
学生のとき、器械体操をやっていたせいかもしれない。

従兄弟の一人が、
あの毒舌のあごの骨はしっかり納めんとなと言った。
のど仏もきれいなものだった。
私の斜に構えた態度と物言いは、
往年のブンヤ(新聞記者)魂に
多大な影響を受けている。
たまにしか会えないほど、その傾向は強くなるものだ。

映画『スティング』のポール・ニューマンが、
カードを切りながら、目くばせをするカットがある。
伯父がトランプを手にしたときの表情そのままだったので、
「ああ、おじさん、スティングだったんだね」
と思わず片頬で笑ってしまったことがあった。

戦争で死ねなかったので、
私の父も伯父も、その家族を残すことができました。
父たちには申し訳なさもあったかもしれないけれど、
それが、私たち家族にとっては
ある一つの日本の幸福です。


2010年1月12日 (火)

このまま ぼくら

 きみは苺をつまみながら
 軽い髪に気を配る
 
 すごい勢いで 誰かが風纏い
 走り抜けて行った

 壁は崩れ落ちて 美術館は
 海に変身 きみはまだ
 ちっとも笑いそうにないんだ

 このまま ぼくらに
 悪いことや悲しいことがなければいいのにな

 ぼくはきみの顔を 眺めて暮らすんだ

 
なんて歌詞を、高校のときに書いた。
松山猛氏の影響を受けていて、
まだ松本隆に出会ってない。と思う。
「顔を眺めて暮らす」だなんて、ハハハ。

それから、こういうのも。


 なんにも変わらないんだね
 いつまで こうしていたって

 張りつめた大気のなか
 ぼくが動けば ひび割れる

 だからさ この川を下ろう
 いくつも 氷を砕きながら

 春に萌える若草なら
 摘んでおまえの 髪飾り

 ぼくの冷たい手 おまえのポケットのなか
 おまえの冷たい耳 ぼくのささやきのなか



若さだよ、山ちゃん。




Therefore we will go down this river
While crushing some ice after ice

2007年10月12日 (金)

太平洋のように

今日は、長男の19回目の誕生日。
熊本赤十字病院で昭和63年に生まれた。3500g位だった。
昭和の次の元号は「平和」がいいかも、と
呑気に考えたことがあって、
「洋平」と名付けたことになっている。
翌年、ご存知のように「平成」になったので、
先見の明があったことにしている。

日赤のエレベーターホールのベンチで、
午後から会社を休んで待つこと7時間。
よその子は次々に誕生し、
待ってる家族に、ナースが伝えに来る。
もしも、母体が危なかったら、子どもは二の次だな、とか
いろいろ悪い想像もしながら、馬鹿みたいに待った。
たまりかねて、ナースセンターに行くと、
お片づけ中のナースが、「え〜っと、上田さん・・・、
あ、さっき、お産まれになりましたよ」
「で、無事に?」と恐る恐る訊くと「はい」とストレートな返事。
怒りが沸々とわきあがる、よりもだな、
喜びがジワーッと押し寄せてきて、
津波のように私を飲み込んだ。遠い日の記憶。

2005年1月 3日 (月)

同窓であること~12/?/2001・k264

 熊本の人は、すぐに出身高校を聞きたがると言われる。この出身高校の話題を、何で初対面の人としなくてはいけないのか、変だ、どうでもいいことなんじゃないかと思う人もいるらしい。

 確かに長い人生の中でのわずか3年間を過ごしただけなのだが、青春時代のことだから、密度が濃いと言えるのではないか。中にはろくな思い出がないという人もいるかもしれないから、懐かしく思い出せるというだけで幸せなことだと思う。

 だから、先輩と聞けば、よろしくお願いしますとすがりつき、後輩と知り合えば、いつか君の手助けが出来るようになるために、私もがんばろうと決意を新たにする。

 世代は違っても、みんなあのイチョウの樹の下を歩いたのかと思うと、やはり他人とは思えなくなってくる。私は相手の出身高校を訊ねることはしないが、自分から大津高校卒業であることを述べる。話のきっかけになることもあるし、そうでないときもある。

 私の在学中には、校舎の東側に大きなポプラの木が、4~5本立っていて、夏の陽光にきらめく姿が印象的だったものだが、安全上の理由からか、切られてしまった。私にとっては最も美しい風景のひとつだったので、それを覚えている人と、その思いを共有出来たらいいなと願いながら、これを書きました。

Then and Now : 大津高校の同窓会名簿に寄せた文章。同様の投書を熊日に送ったこともある。これは、掲載されることが確実だったので、ちょっと読みにくいなあと反省。

2004年11月 1日 (月)

同窓会って何?~9?/?/2002・k225

 母校大津高校が、今年創立80周年を迎えた。私は同窓会総会に参加したのだが、46歳の私が若い方であるということで、だいたい会の性格がわかるというものだ。

 では私はなぜ同窓会に行くのか。それは今この時代に、同窓会というものが、どういう意味を持つのかわからないからである。
 クラス会という横のつながりでの交流は、そうすたれていないかもしれない。しかし、タテの関係である同窓に意義を見出すのは、ある程度の年代から上の先輩方だけではないだろうか。

 高校野球やサッカーなどで、母校を応援する気持、それ以上でも以下でもない。何ゆえにわざわざ、同窓会に出席してまで、同じ学校を卒業したことを喜び合わなくてはいけないのか、という気持がわからないでもない。

 来年の町長選挙のことや町村合併も話題に上っていた。それは地元の関心事であるから、様々な意見を交わす場として、同窓会も利用されてもいいと思う。一枚岩とならないところが大津の伝統であったから尚のこと。

 映画監督の中山節夫さんが新作のPRにいらっしゃっていたが、そういう応援こそ忘れてはいけないと私は思う。

Then and Now : 熊本日日新聞「読者のひろば」不採用。世の中には、様々な会(アソシエーション)がある。でもたいていは、つきあいで加入しているといったところではないのか。でも、同じ参加してるんなら、それも同窓会なら、そこに大いなる意義を見つけてみたい。と思っていたのだ。
 どこかで、何かの形で徒党を組みたがるのが人間だと言いきってしまうと、それまでだけど、やっぱり人と人との繋がりの中で、生きてるんだもんね。

2004年7月31日 (土)

一般の部A「親として、地域の一員として、先輩として」 題「学校は好きですか」①~?/?/2000・k155

 私の祖父が、小学校に上がる前(おそらく100年と少し前)のことである。自分の兄が学校で勉強しているのがうらやましくて、毎日窓の外から授業をのぞいていたら、ある日先生が「そんなに勉強したいなら、お前も中に入れ」と教室に入れてもらったという話を幼いときに聞かされて育ったせいか、私は「学校」が好きだった。学校で「勉強する」ことも好きだった。

 私には現在、小学6年生と3年生の二人の息子がいる。「学校は好きか」とたずねたことが、何度かある。返事は「好き」だった。それ以上でも以下でもない。どこが、かを詳しく聞きたいのが親心なんだが、そんな質問にはあまり取り合ってくれない。

 40歳を過ぎて、学校に通っていた頃が特別なつかしくなったわけでもないが、当時の先生方の消息を聞くと、とても会いたくなって来て、訪ねてみた。先生の記憶に残っていただけで出かけた甲斐があったというものだ。

 自分が生徒だったときには、先生方は教師であり人生の先輩だった。今もそれは変わりなく感じられる。しかし、私自身、父親になったということの意味は大きく、先生との距離は幾分近づいたような気がする。

 私は教師という職業を選ばなかったけれど、「子育て」においては現役である。だから昔の話より、今の話をする方がうまく喋れる。昔の未完成品だった自分の、背伸びしていた頃のことなど、正直言ってあまり触れたくない気持も少しはある。

 ここから、小学校のPTAで広報委員をやった話。そう言えば、私も小学生のとき作文とか日記とか、好きだったわけではない。提出に迫られて、母の指導のもと、嫌々ながら書いた読書感想文が入賞したり、作文が学校の文集にのったりしたくらいだ。

 たとえば『猫とオルガン』なんていう本は、ちゃんと読んだ記憶すらないんだが、おそらく母と対話しながら私が書き取るという方法で仕上げられたんだと思う。大水が出て、池の金魚が逃げ出した事件は、はっきり覚えている。しかし、これも私の切れぎれの言葉を母がまとめてくれて、それを清書したものだった。縁側で寝っころがって書いたような気がする。  【②に続く】

一般の部A「親として、地域の一員として、先輩として」 題「学校は好きですか」②~?/?/2000・k154

 そういう幼時の思い出と多少関係があるかもしれないが、長男が1年生になって、しばらく交換日記をつけたことがある。身体があまり丈夫でなかった私と違って、息子は外遊びが好きでしようがないタイプなので、文章に綴ることが面倒になり(夜は疲れて早く寝てしまう)、私の仕事が忙しかったこともあって、これは自然消滅してしまった。

 彼が私と同じように物を書くのが苦痛でなくなるかどうか。あの日記のせいで嫌いになったかも。親の思いは熱すぎても伝導率まで変えられるものではない。

 そこで、PTA役員の中でも最も敬遠されると言われる広報委員に自ら進んでなった話。
 祖母が口ぐせのように言っていた言葉がある。
「義を見てせざるは勇なきなり」
役員決めのとき、いつまでたっても決まりそうもなかったから手をあげた。大学生のときミニコミ紙を作っていたから、そういうふうにできれば楽しいかも。

 結局、2年間広報委員を務め、2年目は委員長になった。新聞社主催のPTA新聞コンクルールで入賞するという目標を掲げたことと、どうしても組んでみたい特集が何本かあったからだ。今思い返しても、ひとりで突っ走った部分も多く、配慮が足りず編集し直し、刷り直した号もあった。あの情熱は、ただの「目立ちたがり屋」に過ぎなかったのかもしれないと思う。

 ともかく「教科書を読もう」という特集をやれたことはよかった。委員それぞれで学年と科目を分けて、いくつかのアプローチをした。でも実を言うと、自分では教科書をちゃんとは読まなかった。方針を決めたときには、もう次のことを考え始めていたからだ。

 結局実現しなかった「きみの友達」という企画は、学校に通っていた頃の友人のことを思い返して、自分の息子らにとって「友だち」ってどんな感じなんだろう、どこが違うんだろう、変わらないことって何だろうと考えたことがきっかけだった。 【③に続く】

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