晴れた日には永遠が見える

2021年3月 2日 (火)

パンデミック・エントリー

パンデミック→リンク 

2009年3月8日のエントリー。
われながら当時の記事は、ほぼどれも面白い。
次々に読み込んでしまった。
当時、新型インフルエンザが世界的に流行した。
日本ではそれほどではなかったのだが、
その検証のための国際的シンポジウムが
なぜか合志市で開かれたときの件。


2015年12月20日 (日)

火山活動から考える

くまもと森都心プラザで行われたシンポジウム
「近年の火山活動から考える一般市民のための火山災害対策」
に参加した。日本損害保険協会の主催。

まず、清水洋(九州大大学院理学研究員教授/火山噴火予知連絡会副会長)
が、「火山噴火予知の実力と災害軽減のためにすべきこと」を講演。
火山の噴火とはどういうことかを、わかりやすく解説してもらった。

清水教授によると、火山噴火予知の5要素とは、
いつ(時期)
どこから(場所)
どれくらい(規模)
どのような(様式)
いつまで(推移―終息)

結論から言うと、
火山噴火予知実現(つまり5要素の達成)への道のりはまだ長い。
「どのような」と「いつまで」の部分が現在のところまだできない。

レジュメをそのまま掲載したいほど。しかし、そうも行かない。

第2部のシンポジウムは、
「今後、必要となる火山災害対策とは」がテーマ。
コーディネーター:木村拓郎(減災・復興支援機構理事長)さん
パネリスト:池辺伸一郎(阿蘇火山博物館館長)さん
       岩田孝仁(静岡大学教授/前静岡県危機管理監)さん
       清水洋(前出)さん
       宮下加奈(ネットワーク三宅島代表/
         火山地域の市民団体相互支援ネットワーク事務局長)さん

岩田さん「災害は公平平等ではない。偏在して起きている。
税金を公平に使うという考え方の転換が必要である」
「防災は想像力である。どんなことが起きるのか、
それぞれの立場で想像をたくましくしなければいけない。
その想像力のためにはデータを提供するというサポートが必要。
また考えたらそれを実行しなければならない。
自助共助をきちんと支えるのが公助である」


Photo
森都心プラザから、JR熊本駅を望む。
       
       

2015年1月14日 (水)

絶叫!パニック映画大全

上妻祥浩著、河出書房新社刊
『絶叫!パニック映画大全』

昔は、こういうマニアックな映画本がよく出版されていた。
昔とは、植草甚一さんがご存命の時代である。
売れていたのかどうか分からないが、
ロック系の音楽や映画に関する評論家の仕事は、
そこそこあったのではないかと思う。
いまは、ネット上に情報は氾濫しているし、
昔みたいな論ずべき映画がすっかり影をひそめた。
というか、私自身が映画を見ようと思わないことが
その原因の一つであるのだが。

昨年7月26日の熊日文化欄に、
熊本高専教授の古江研也さんの評が載っていて、
そこでは「名作の作劇方法を『グランドホテル形式』と指摘し、
人間のドラマとして評価している点に
具眼の士の力量を感じる」と高評価である。
しかし、ブームの源となった『大空港』は公開当時から、
この「グランドホテル形式」という解説が珍しくなかった。

つまり、それだけでも70年代は遠くなってしまったのだ。
70年代とは、終戦後25年ちょい過ぎぐらいの話である。
戦後70年、そりゃ年代ものである。

この本を読んで(図書館にあった。作者は熊本県人だから)、
久しぶりに映画『大空港』を見たら、
やっぱり人間ドラマとしてよくできていた。
オーソドックスなお話なのだが、
これをパニック映画として位置付けたことで、
それからしばらく続くそのブームの
火付け役となり得たのだろう。

いまの感覚では、ディーン・マーティンが、
飲み過ぎの女たらしにあまり見えないのは驚きだ。
また、ジャクリーン・ビセットは時空を超えて、
変らず魅力的だったので、胸がキュンとなった。
人には誰にでも最高の輝きのときがあるということだ。



2013年10月 4日 (金)

一枚の写真

3

菊池市の泗水総合庁舎に行くと、
花房台飛行場の戦争遺跡の展示があっていた。
米軍機や日本の戦闘機のモデルが立派だったけれど、
そのそばに、この写真があった。
え?旧泗水村郵便局前での記念写真。
ということは、局長だった私の祖父が写っているのではと、
眼鏡を外して、じっくり観察すると、
どうも矢印の男性が、祖父に似ている。
局長だから、真ん中にいても不思議はないのではないか。
当時、56歳ぐらいではなかっただろうか。
長男は学徒動員で南方に行き、
次男と三男は予科練にいたと聞いている。
次男が私の父である。
この飛行服の青年たちは、特攻で飛び立った。

大津町の私の生家には、配達されなかった手紙やはがきが、
未使用のはがきや切手とともに一抱えほどあった。
泗水を引き払うときに処分もできず、持ってきたのだろう。
無口で耳も遠かったので、何かを話したという記憶もない。
残ったのは私と、それに連なる息子や孫に受け継がれた遺伝子だけ。


2013年6月22日 (土)

わたし遺産

朝日新聞で、
三井住友信託銀行の「わたし遺産」募集の広告を見た。
リンク  

ちょうど穂村弘さんの文章が載っていて、
それがすごくよかった(公式サイト内で読むことができます)。

私もすでに人生の折り返し点をおり返して
ずいぶんになるので、
これまでに見たこと聞いたこと学んだこと考えたことなど、
この世から消えてしまうのがもったいない気がしている。
少しでもそれらを残そうと始めたのが、
この晴れ永遠であった。
読んでくれた誰かが役に立ったとか、
ひまつぶしになったとか、
できれば、小さくでも唸らせたいという邪心もあるが。

阿蘇山の噴火や災害の歴史を
合志市民大学で学んだとき、
文化財やアーカイブだと言ったところで、
過去最大級の噴火が阿蘇山で起きれば、
九州なんてみんな火砕流に飲まれてしまうことを知った。
後世に残すことの意味に対して、救いようのない空しさ。

だが、いつ来るかわからないその日まで、
数十億年後には地球だってなくなることだし、
少なくとも日本語が生きながらえるかぎり、
思いを残し伝えていこうではありませんか。

という大上段に構えた話ではないでしょう。ほんとは。
子どもや孫に伝えたいでも、大いに結構。
でもまず、自分にとってのわたし遺産をそれぞれに思い起こし、
自ら認定することで、
どこかの誰かに記憶や経験を「渡し」ていくことを
始めましょうということではないだろうか。

個人的には、どれを、という選択に時間がかかりそうです。


2011年3月18日 (金)

empty sky

empty sky

高校生の頃は、
いつも何とはなしに
胸に隙間を感じつつ、
抱えきれない空しさを
持て余していたものだ。

きょう偶然にも見つけた春の空は
すっかり満たされていた。
あれから39年。

2011年3月17日 (木)

夜伽(ヨトギ)

友人の母上が亡くなられ、今夜、夜伽が行われた。
友人の父上は前の住職であるが、
謝辞の言葉は、たいへんありがたいものだった。

昨今、通夜式が葬儀の前夜祭のようになっているので、
あえて「夜伽」と案内を出したとのこと。
もともとは、病床の人に元気を出しなさいと
周りの人が、食べ物を持って夜に集まってきた。
そのことに由来するのが夜伽である。
集まった人がなかなか立ち去り難く、
夜を明かしてしまうことがお通夜。
昔は昼間みんな働いているので、
どんな行事も夜に行われるのが普通だった。
夜伽飯とよく言うが、
米が貴重だった時代の一番のごちそうだったから。

もうひとつ。
生前と言うのは生まれる前の意で、
つまり往生楽土に生まれ変わる前の
この世でのことを指すのだということも。

2011年3月13日 (日)

航海日誌は異常なし

朝、カーテン越しに
まぶしい光が射していた。
昨日までのことが夢だったら・・・
まずそう思った。

ネット上では、さまざまな情報が飛び交っている。
テレビでは、映像が文字通り洪水となっている。
ここ合志市では、放射冷却と思われる
朝の多少の冷え込みも、
このあふれるばかりの日光で、
じきに温まるだろう。

2日目の朝が来て、
私も少し冷静になれた。
昨日は、私の55回目の誕生日で、
九州新幹線全線開業と合わせて、
Go Go!と行こうと思っていたのだが、
とてもそんな気分になれなくて、
更新もしなかった。

ツイッターを見てると、
みんなずいぶん生な発言をしている。
即時性に意味があるとはいえ、
私は口をつぐむ方がいいような気がした。

でも、ウェブログは日誌なので、
やっぱり不遜だと思われることを恐れず、
自分の周りで起こったことを、
出来るだけ客観的に、
そしてその時点での自分の考えも記す。
そういうものだ。
そう思えるようになった。

2010年8月 3日 (火)

美学

今野雄二さんが亡くなった。
事実を事実としてありのままに受け止める。

ミュージックマガジン誌での映画評は、
楽しみの一つだったんだけど、
もはや時代には合わなかったのか。
氏のテイストが時代の先端だった時期も
確かにあったんだけどな。、
もう居場所がなかったということだろうか。

私はいつまでも忘れないと思う。
ひどい言われ方をしたこともあったけれど、
彼の視点は鋭かったし、勉強になったことは多い。

今年のフジロックには、
何と再結成のロキシー・ミュージックが出ていたんだけれど、
今野さんは、行ったんだろうか。
いずれにせよ、それで思うところがあったのかもしれない。
憶測でしかないけれど。

エルトン・ジョンを教えてくれた人。

サディスティック・ミカ・バンドのファーストアルバムには、
レコーディングデータというオマケのEP盤がついていたが、
ZUZU(安井かずみ)、今ちゃん(今野雄二)が
ジャックダニエルを差し入れたって、記録があった。
加藤和彦さんも亡くなってるし、
レコーディングデータの意味が重たく感じられる。
自分が歳を取るということでもある。

いや、誰しも、1年は12ヶ月。









For anyone, one year means twelve months.

2010年7月26日 (月)

ル・プティ・プランス

10月に、B研(青山学院大学ビートルズ訳詞研究会)の
OB会がある旨、先輩からメールをもらったが、
残念だけれど、今のところ、行けない確率が高い。

このB研というのは、
おそらく、1970年代から80年代にかけて、
青学にサークル連合という組織があった頃の
メンバーのことを指すのではないかと思う。
少なくとも、現在のビートルズ訳詞研究会とは別物だろう。
私が熊本にいるせいか、そういう気がする。

まあ、それはそうと、
先輩が、京都でフランス料理店をやっていて、
その店のホームページがあるということなので、
ここに紹介しよう。→リンク

行ったこともないのに、無責任だけれど、
まあずいぶん可愛がってもらった(笑)ので、
そのお返しです。

30年前、今にして思えば、
ビートルズが解散して間もないころで、
と言っても、もう10年は経っていたが、
ジョージ・ハリスンはおろか、
ジョン・レノンもまだ生きていたのだ。
リンダ・マッカートニーはウィングスのメンバーで、
村上春樹は、まだ小説を書いていなかった。
その他もろもろ。






And so it goes.

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