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2012年1月28日 (土)

連歌から俳諧へ

合志市市民大学の今クール第2回目。
熊本県立大学文学部教授 鈴木元さんの
「連歌から俳諧へ」を受講。

チラシによると、
「戦国時代、合志・菊池の武士も詠んだ連歌は、
松尾芭蕉にも影響を与えた熊本出身の連歌師、
西山宗因の登場により、江戸町民文化の俳諧を生み出します。
後の俳句の源となったその流れについてやさしく学びます」

ほんとうにやさしく学べた上に、面白かった。
連歌というのは、人の詠んだ句に「附ける」ことで
成り立つ、つまりはセッションに趣を見出すお遊びなのだ。
相手に対して無理難題を出したり、
ナンセンスな味わいを楽しむものなり。
ジョン・レノンが講義を受けたら、涙を流して喜んだろう。

源俊頼の『散木奇歌集』にはこういうのがある。
 「とりと見つるはうさぎなりけり」
つまり、鳥だと見えたら、兎だったよという上の句がある。
無茶苦茶である。
ただ単に、鳥という語に鵜と鷺を引っ掛けているだけ。
しかしそれに負けじと
 「このみかとかきはまくりもきこゆれど」
牡蠣と蛤を柿と栗に結びつけて、思い知ったか。
てな感じ。

いろは連歌というのは、
頭の音をいろはの順に附けていかなくてはならないルール。
たとえば、
 「ぬれにけりしほくむ海士のふぢ衣」
に続けて、「る」で始まらなければいけないので
 「るきゆく風にほしてけるかな」
やまとことばの頭には、ラ行の音は来ないのだそうだ。
もちろん「るきゆく」なんて動詞も形容詞も存在しない。
しかし、それが大うけするんだから、
いまのTVのお笑いと大して変わらない。

ただ、その場限りで記録されなかったものも多い。
大方、残すことに意味のある内容と思わなかったのだろう。

レジュメによると、
遊戯性・趣向の遊び
    ↓
表現の洗練・遊びの要素の潜行
    ↓
笑いの通俗化
    ↓
通俗化への反発
    ↓
ナンセンスの復権

となり、それに引き続き、松尾芭蕉が登場
するのだそうだ。

なるほどねえ、とそこに面白さを感じる人しか
興味を持つことはないだろう。
講座を開くに当たり、先生はこんなふうなことを言った。

30名ほどの受講者を前にして、
文学部の存続はみなさんに支えられていると実感する、と。
そうだよなあ。
文学、それも古典を研究してなんになるのって
経済学的、あるいは科学的視点からは疑問が湧くだろう。
でも、やっぱり私など、愚にもつかないかもしれないけれど、
それなりに存在価値はある。
相当あると思う。

どうでもいいけど、
やまとことばにラ行で始まる語がなかったから、
日本人は、LとRの発音の区別が苦手なのかも。



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コメント

そうですな。うちの長兄はもう30年くらい(?)書道をやっていて草書・行書を毎日練習(というのか?)している。母も短歌をやっていたので詠んだ歌の短冊とかがそこかしこにかけてある。が、私は読めない。これやっぱり日本人としてまずいんじゃないかと思う。古典全般について、研究者だけしかわからないということになると、アイデンティティの問題になるよね。江戸時代とかは識字率が低かったけど、それでも連綿として続いて来たんだから大丈夫ということも言えるかもしれないけど、アメリカ人かなんかにこれなんて書いてあると聞かれた時、オールドジャパニーズだからわからないというのは恥ずかしいな、やっぱり。

昔、映画『小さな恋のメロディ』の中で、
主人公の少年マーク(じゃなかったと思う)はラテン語についてこう言った。
「死んだローマ人の言葉なんて勉強してもしょうがない」
イギリス人だからな。
そんなとき、アメリカ人には、カンフーの真似をするといいという話だったが、
いつまでも通じる手ではないだろう。

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